2005 年
9 月
12 日
ヒロシマ・スタディツァ
〜「親子で行く!平和を考える旅」その3〜
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次の日はレンタカーを借り、竹原市を目指し、山陽自動車道を東へと向かいました。竹原市忠海という港から15分ほど船の旅を楽しみ到着したところは、大久野島(おおくのじま)です。港からすぐに毒ガス資料館へと足を運びました。 ここには、東京第二陸軍造兵廠(しょう)忠海(ただみ)製造所という日本軍の毒ガス工場が昭和4年から昭和20年終戦後アメリカ軍に破壊されるまで存在していました。この工場では、各種の毒ガスや信号筒風船爆弾が製造され特にイペリットという毒ガスの生産に重点が置かれていました。最盛期には、島全体に様々な工場や保管庫が次から次へと建設され、約4000人近くの人々が生活していました。 イペリット・ガスは、ゴム性の防毒マスクや衣服・手袋・長靴等で完全に覆われていてもその隙間から工員の体へ浸透し、皮膚・目・咽喉等を冒して結膜炎・肋膜炎・肺炎・気管支炎などを引き起こしました。 有効な治療法はなく、皮膚炎に対する治療法は過マンガン酸カリと酢で毒を中和し、火傷の扱いしかありませんでした。呼吸器疾患に至っては出来るだけ栄養を取る以外に治療法はありませんでした。 日本が中国大陸で毒ガスを使用していたこと、化学戦の実体として、研究開発・大量製造・充填・運用と訓練まで日本国内で行われていたことをはじめて知り、恐れおののきました。それにもまして、その工場で働いていた人たちの多くが危険にさらされ、実際に被害に遭い、勤めている間中、極秘のため家族にも話せずに精神まで冒されていた様子が思いやられ悲惨さが増幅されました。 原子爆弾を落とされた国ですが、それまでにはそうされるだけの事をしていたというか、戦争は常にお互いに戦う、被害者であると同時に加害者でもあることを実感しました。 「この歴史を忘れないために、二度と再び繰り返さないために、いつまでも平和であり続けるために、」広島県と関係市町並びに障害者団体のご理解とご協力により建設されたこの「大久野島毒ガス資料館」は「戦争の悲惨さを、平和の尊さを、生命の重さを」伝えつづけています。 機会をつくって訪れ、一度見てください。そして、当時の生活を想像してください。自分の感覚で、地域から平和を作り出す気持ちを確かめてください。国が、行政が作っていくだけではないことを踏まえ、恒久平和を目指し一緒に活動していきましょう!
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